大きくなったら何になりたい?


そう聞かれたら、何にもなりたくない、と、答えるだろう。





固く固く心を閉ざして。


(思い出が零れないように)


ただただ過去の風景をなぞって。


(未来なんて望んでいない)


もう会えないあいつへずっと恋をしながら、


いつか息絶えていければ幸せだ。





だから。


あいつに似た背中を見付けた時は、自分はもう死んでいるのではないか、と。本気で思った。



***



「瑞夏さん、だよね?」


首を傾げて笑う、見知らぬ彼。
柔らかそうな髪は日があたって茶色く透け、底の見えない瞳は飄々としていた。

似ている。ひどく、似ている。

仕草が、雰囲気が、パーツが。
違うのは、顔の造りと身長、それから、声の低さと。


警戒して、彼女は一歩足を引いた。
其れに気付いた彼の笑みが苦味を含んだものに変わる。


「怪しくないよ、って言っても怪しいかな」
「…何のご用ですか」


一方的に言葉を返した。
気分を害した様子も無く、うん、と一度頷いてから彼は言う。

講義が終わった後の構内は学生で溢れていて、雑踏にいるのと変わらなかった。
だというのに、耳に届く彼の声は鮮明だ。


「そういち」
「っ」
「燥一の事、覚えてるよね?」


聞かれるまでも無い。
瞼を閉じれば其処にいる。声だって、輪郭だってなぞる事ができる。

こくりと唾を呑んだ。

どうして今更自分以外の人間があいつの名前を出すのか、計りかねたのだ。
けれど同時に、自分以外の人間がその名前を呼ぶのを久しぶりに聞き、安堵する。

写真だってビデオだって実家にあった。其れでも、本当にあいつは居たのかと、偶に不安になるのだ。

寂しい心が生んだ妄想なのではないか、と。
怖ろしくなるのだ。


「高校一年の春から夏まで、同じクラスだったんだ」
「あ…」


其の季節は。


「瑞夏さんが、唯一あいつの傍に居なかった時期、俺は傍に居たんだよ」


ざわり、風が吹いた。
初夏の気配を纏った其れは、ばたばたと髪を掻き乱して去っていく。

あの頃ばさりと切り落としたまま短くしている黒髪だけれど、長い頃の癖でつい抑えてしまった。
其の間も彼から視線を逸らせずにいた彼女は、不意に込み上げてきた感情に蓋をする。

歓喜?悲哀?寂寞?後悔?感情が混じりすぎて、叫び出してしまいそうだ。


「…あたしは、小さい頃から貴方と出会う前のあいつの傍に居たよ」
「うん。だから、お願いがあるんだ」


狐のように目を細めて笑う。
其の癖はあいつのもので、だから彼女は気付いた。


彼は、あいつに似ているのではない。
あいつを模倣しているんだ、と。


愚かだと嗤っても良かった。
けれど、同じように愚かな自分はまるで鏡を見ているようで。泣きたくなった。

同じ想いを抱えている人間と出会えた、其の事に。


「…あたしも、お願いがある」
「うん。きっと、同じお願いだと思う」
「いいよ」
「ありがとう。とても、嬉しい」


くしゃり、と無邪気に笑う表情が。
どうしようもなく、重なって。


燥一、と、呼びそうになった。


「なぁ、まずは名前を教えてくれないか?」


間違えて、本当に、そう呼んでしまう前に。


「あたしは、呉野瑞夏だ」


一歩、自分から近付いた。
警戒を解いた事を悟ったのだろう。彼も一歩、そして右手を差し出す。


「俺は、雪斗」


冬の名前だ。
羨ましい。冷たい冷たいあの季節は一番、心が安らかでいられる。


「真田雪斗。よろしくね、瑞夏さん」


懐っこい笑顔は人ではなくて天使か何かのようで。
初夏の日差しを浴びて、ふわり、ほんの一ミリ、心の動く音がした。






15 : 吸葛





こうしてあたし達は、不毛な恋心を共有する事になった。










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