「瑞夏、ちゃんとご挨拶しなさい?」


兄の手を握りその背中に身を隠しながら、そっと窺う。
目の前に立っているのは、懐っこい笑顔を浮かべた男の子だ。


「はじめまして、みずかちゃん」


首を傾げた時、日に透けると茶色になる柔らかな髪がさらりと揺れたのが、羨ましかった。


「ぼくはそういち。いっしょにあそぼ?」


其の様が、人ではなくて天使か何かのようで。
兄の指を解き、そっと男の子に近付く。




あの頃のあたしの世界は、あいつと純南、兄貴と父さん。其れで全てだったんだ。






08 : 満月





「瑞夏、黙っていちゃ分からないからお父さんに教えてくれないか?」


父親に優しい声で諭すように言われ、瑞夏はびくりと体を揺らした。
顔を見るのが怖くて、正座をした太ももの上で拳を作り、それをじっと見詰める。


「瑞夏」


もう一度、今度は少し強く呼ばれた。
耐え切れず、言葉を吐き出しそうになる唇を引き結び、瑞夏は押し黙る。


「怒らないから、な?」


歯を食い縛った。

青いソファと木製のソファテーブルの間、夏に向けてラグもカーペットも敷いていないフローリングの上で、二人は正座をして向き合っている。
冷えていく足と比例して、空気が重く沈んでいた。


「父さん」


其れを掬い上げるように、ソファの向うのダイニングテーブルに座り、様子を眺めていた秋弥が言う。


「誰かさんに似て瑞夏は頑固だから、このままじゃ埒が明かないよ」
「だがな、秋弥」
「大体、父さんは瑞夏相手に怒れないでしょ?」
「うぐ」


息子に的確な指摘をされ、父親は情けなく表情を崩した。
僕には厳しいくせに、瑞夏には甘すぎるんだからひどいよねーとおどけて言った後、秋弥は押し黙る瑞夏へ視線を移す。


「瑞夏、夕飯食べよっか?」


横に振られた首。


「じゃあ、話はまた明日しようね」


今度は縦に振られた首。

それを確認して、秋弥は苦笑した。
静かに椅子を立ち、正座をして向かい合う二人へ歩み寄ると、しゃがんで瑞夏の頭を撫でてやる。


「お風呂も明日で良いから、今日はもう寝ようか」


ひとしきり髪を掻き混ぜた後で両手を脇の下に入れ、よっこいしょ、と言って妹を立たせて部屋に戻るよう背中をぽんと押した。


「おやすみなさい、瑞夏」
「・・・・・・」
「おやすみなさい?」
「・・・おやすみ、なさい」


ずっと黙っていたせいか掠れた声でそれだけ言い、瑞夏はのろのろと廊下へ続く扉へ歩き出す。
其の背中を見送る父親と兄は、彼女が扉の向うの闇に呑まれて姿が見えなくなった瞬間、同時に溜め息を吐いた。


「どうしてあんなに頑固なんだろうなぁぁ」
「父さんに似たからでしょ」
「・・・最近秋弥くんが冷たい」
「反抗期じゃない?」


にこりと綺麗に微笑む息子は、確かまだ中学生ではなかったか。


「さて、父さんはご飯食べるでしょ?」
「はい」
「今日は煮魚だよ」
「・・・・・・」


所帯染みてきた息子を見遣り、苦労させてばかりで申し訳ない、と父親は項垂れたのだった。



***



ざわりと風に揺れた葉が鳴り、体を震わせる。

音のした方をじっと見詰めたけれど、其処から何かが飛び出してくる事は無かった。
人間も、動物も、勿論お化けも。

ほっと息を吐いた瑞夏は、ベンチの上で両腕いっぱいに抱えた膝を更に強く抱き締めた。


「みずか」
「わぁぁっ」


其の瞬間、真後ろから声を掛けられたのだからたまったものではない。
体を跳ねさせ、声から少しでも距離をとろうとした瑞夏の小さな体は、すとんとベンチから落ちて地面へ転がった。


「あぁ、もうバカだなぁ」


暴れる心臓の音を聞きながら呆れ声のした方を見上げると、其処には夜に紛れた幼馴染の少年が立っている。


「そーいち?」


此処に居るのが不思議で目を瞬かせながら聞くと、他の誰に見えるの?と言いながら少年は瑞夏へ手を差し伸べた。
無意識に其れを握り返して引っ張り上げられながら、瑞夏は首を傾げる。


「なんで、」


じゃり、と砂を踏む音が妙に響いた。

一つ年上の幼馴染は、この春から小学校へ入学したせいであまり会わなくなっていた。
だからこうして顔を見るのも久しぶりで、初めて会った訳では無いというのに瑞夏は人見知りの癖を発動させて思わず顔を背ける。


「みずか?」


不思議そうな其の声を誤魔化す様に、繋いだ手を離してパジャマのズボンのお尻についた砂をぱたぱたと叩いた。
そして先程と同じように、ベンチへ座って膝を抱える。

目の前に広がるのは、深夜の公園。
お気に入りの桃色の象の滑り台(長い鼻が滑る部分になっているのだ)が真正面に在るこのベンチは、方向音痴の瑞夏が迷わずに来られる数少ない場所だ。

其の景色を眺めて、深呼吸。
漸く心臓は走る速度から歩く速度へ変わり、のろのろと少年−燥一へと視線を戻した。


「どうしてここにいるの?」


聞くと、燥一は呆れたような怒ったような顔をしてから溜め息を吐く。


「それはこっちの台詞だよ?女の子がこんな時間にこんな場所に居たら危ないんだから」
「あたし、知らない人にはついてかないもん」
「ついていかなくても連れてかれちゃう」


もう一度息を吐きながら、燥一は瑞夏の隣に勢い良く座った。
ぶんぶんと両足を前後に動かしながら、肩を寄せる。そして、ごつん、と少女の頭に軽く頭突きをしてから、少年は幼さ故の唐突さで聞いた。


「で、何があったの?」
「・・・・・・」
「保育園で、一緒に遊んでた男の子といきなりケンカしたんでしょ?」
「・・・・・・」
「みずか、いきなり人を殴っちゃ駄目だよ?」
「・・・・・・」


いきなりじゃなければ良いのか、とつっこむ人間は、残念ながら同席していない。
そしてもし此処に幼馴染三人組の最後の一人である純南が居たとしても、そうだねばれないように殴らなくちゃね、としか言わないだろう。


押し黙る瑞夏の横顔をちらりと見て、燥一はにこりと笑う。


「みずかが家に居ないの、気付いてるのはしゅうくんだけだよ。おじさんに言おっか?」


びくり、と、瑞夏の肩が震えた。

この意地っ張りで頑固な少女が実は父親に弱いのは、意外と知られていない。
どちらかというと父親が少女を溺愛しすぎていて周囲から呆れられている、其の印象が強すぎるからだ。

けれど少年は勿論、少女の事などお見通し。
そして其れを有効に使えるくらいには、小学一年生の時点で狡賢いのだった。


「おじさん、大泣きして心配して探し回るだろうね。じゅんなの家も巻き込んで、もしかしたらおまわりさんにも言うかもしれない」
「・・・・・・」
「あーぁ、おじさんかわいそうだなぁ」
「・・・それは、やだ」


喰い付いた。
少年は、押し込むように告げる。


「じゃあ、何があったのか教えて?」


ぐぅの音も出ないほど丸め込まれた少女は、強く強く膝を抱き締めた。
ふわり、初夏の風はまだ詰めたくて、剥き出しの肌を冷やしていく。


「あたしは悪くないもん」
「そうなの?」
「・・・そうだもん。だって、あいつ、あいつ、」


震えて消え入りそうな声に、あ、泣くかな、と少年は無感動に思った。

ぐすり、と鼻を啜る音。
それは絶え間なく続き、在る瞬間を境に嗚咽へと変わった。


「なに泣いてんだよ、ばーか」


くっつけていた肩をほんの少しだけ離し、少年は左に座る少女の頭を腕で引き寄せて抱き込む。
普段だったら恥ずかしがって嫌がる癖に、この時ばかりは涙を堪えるのに必死なのだろう、少女はされるがままに肩を震わせていた。


「ひぅっ、ぅぅ、あいつ、ひっく、父さんのこと、ふぅ、ぅぅっ」
「うん」
「ばかに、ひぅ、したんだっ」
「それは、みずか怒っちゃうね」


よしよし、と宥めるように背中をさする。


「べ、べつに、あたし、母さんいなくても、ぅぅ、ひぅ、父さんいればさ、さみしくないも、もんっ」
「うん」
「な、なのにあい、つ、ひっく、おま、おまえんちは母さんいないんだろ、でき、できそこないだって、い、言って、」


此処で少年は、後でそいつの名前を聞いて、自分も殴りに行こうと決めた。


「と、とうさんのこと、ば、ばかにした、かっら、ひぅ、あたし、」
「そっか」
「あた、あたし、わるくなっ」
「うん、みずかは悪くないよ」


そう言われた瞬間、瑞夏は堰を切ったように大声をあげて泣き始めた。


自分の事を言われる以上に、家族の事を言われたのが辛かった。
其れが原因で自分から手を上げてしまい、兄と父親に迷惑を掛ける結果になってしまい悔しかった。

そして何より、言われた事を二人に聞かせる事が嫌だった。
けれど心が弱いから、言って大泣きしてしまいたい誘惑に駆られ、我慢の限界だった。


後から思い返せば、そんなたくさんの想いが渦巻いていた。
たかが五歳の語彙と感情の処理能力では勿論表現できる筈も、把握できる筈も無く、ただただ痛む心を抱えて詰まった何かを吐き出すように泣くだけ。


「一人でよくがんばったね。おじさんにも秋くんにも言えないもんね。えらいえらい」


瑞夏の気持ちを代弁するかのように、燥一はそう囁いて背中を擦り続けた。




漸く涙が途切れ始めた時、満月に限りなく近い黄色が煌々と夜空を紺碧に染めていた。
其の様に目を奪われた瑞夏は、じっと空を見詰める。

腕の中の少女の目線の先を追った少年も夜空を見つけ、同じように見詰めた。
不意に寒さを感じ、少女と体温を分け合おうと強く抱き寄せる。少女も同じように少年へ擦り寄り、夏至をまだ迎えていない季節の風から逃れるように身じろぎをした。


「なぁ、そーいち」
「なぁに?」
「・・・ごめんなさい」


しゅんとした様子で呟くように言う様子に、少年の心はふわりと温かくなる。
守ってあげなくちゃ。そんな使命感が、次に言うべき言葉を勝手に選んだ。


「月と星のかんそくしたかったから、みずかの気にする事じゃないよ」
「・・・ばーか」


気を遣わせまいとついた少年の嘘をきちんと見抜き、少女はくすくす笑う。
涙を流しきって漸く元気を取り戻したらしいその様子に安心した少年は、よし、と言って拒絶にならないようそっと体を離した。


「それじゃあ、秋くんが心配してるしそろそろ帰ろ」
「・・・うん。あのさ、そーいち」
「ん?」
「・・・えっと・・・兄貴に、さっきの話、する?」


窺うように上目遣いで少年を見上げ、少女は不安げに眉を歪める。
だからその黒髪をくしゃくしゃと撫でてやり、大丈夫だよ、と少年は告げた。


「秋くんにもおじさんにも言わないよ。だから瑞夏は、安心してちゃんと寝るよーに」
「っうん!」


暗闇の中で輝くように浮かんだ笑顔に、少年は胸を撫で下ろす。
そして左手を差し出すと、


「じゃあ行こっか」


と首を傾げた。
其の手を衒い無くとり、少女は大きく頷く。


そして幼い二人は、拙い足取りで帰り道を辿ったのだった。



***



夜の公園は、避難所。
どんな時だってあたしを探し当てるお前は、月と同じくらい、ただ静かに隣に居たっけ。







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