「かんらんしゃ」
「え?」
「観覧車。乗ろうって、話してた」


その一言で、その日の行き先が決まった。






01 : 観覧車





強くブレーキを踏み、加速する。
当たり前のように法定速度をオーバーして走る車に乗る彼女は、ぼんやりと流れる外の景色を眺めていた。
そして彼は、目的地へと真っ直ぐ向かう。

車内に流れる音楽は、fake Rainのアルバムだ。
いつもの曲、いつもの休日。
けれど今日はいつもより、ほんの少しだけ遠くへ。


「瑞夏さん」
「ん」
「観覧車、見えたよ」
「・・・ぁ」


右斜め前方へ姿を現した観覧車。
それはビルの合間で、落日の橙を浴び黒い影となって浮かび上がっていた。

ずっと左側を見詰めていた彼女は、言われて気付き、認めた瞬間目を見開く。
そして、無意識に前髪を掻き上げた。


「・・・きれい」


ぽつりと落ちた言葉。
返答が必要無い事を知っていたから、彼は黙ってハンドルをきる。


「きれいだ」


その声が、ほんの少しだけ震えていた。
けれどそれに気付かない振りをして、彼は問う。


「本当に、乗る?」


彼女は答えず、その間をスピーカーから流れる低く柔らかな声が埋めた。
そして彼は、ひたすら待ち続ける。


車は曲がり角を折れ、直進し、ひたすら黒く巨大な影へ近付き続けた。
迷い無く進むのは、彼が道を知っていたからに過ぎない。もしかすると、以前にも訪れた事があるのかもしれなかった。


観覧車の麓にある公園の駐車場へ車を入れ、そして静かにエンジンが止まる。
その間、彼はひたすら待ち続けた。

それを知っている彼女は、ようやく唇を開く。


「・・・乗る」
「了解」


鍵を抜き、車を出て、彼女も外へ出て扉を閉めたところで鍵をしめた。
その場で見上げる観覧車は、やはり落陽を背負って黒い。


「・・・大きいな」
「うん。大きい」
「雪斗、高い所は大丈夫だっけ?」
「大丈夫だよ」


彼がにこりと笑み、首を傾げた。
それに頷いて、彼女は良かった、と言い歩き始める。


アスファルトを踏みしめ、響く足音。
彼らは無言で、観覧車へと向かった。




チケット売り場で券を買い、乗り場へ向かう。
休日だというのに、昼でも無い夜でも無い中途半端な時間だからだろうか、そこには係員以外誰も居なかった。

買ったチケットを手渡し、誘導されるがままに扉の中へ乗り込む。
それが閉まり、鍵が外からかけられ、空へ向かう密室の旅が始まった。

天井近くに取り付けられた小さなスピーカーからは、観覧車についてのアナウンス。
一周二十分という時間は、彼らにとって長くも短くも無かった。


向かい合わせに座って、それぞれ別の方向を見つめる。

彼女の眼下に広がるのは、夕闇に沈む公園と駐車場、道路とその向こうにある高層ビル群。
彼の眼下に広がるのは、落日を飲み込む水平線、影の色になった海。


同じ空間に居るというのに、それぞれの想いでそれぞれの時間を過ごす二人を繋ぐものは、いつだってたった一つだ。

他人には、脆く見えさえするであろう記憶。
それを辿るためだけに、彼らは共に居た。


数分の無言。
二人を閉じ込めた籠は地上を離れ、空の半ばに差し掛かっていた。


視線を感じた彼女は、窓の外を見詰めるのを止め、そちらに目を向ける。
案の定、対面に座った彼がこちらを見て、緩く笑んでいた。


「なんだ?」
「なんでもないよ。ただ、」
「ただ?」


言葉を躊躇った彼は、一度口を閉じる。
そして顔を横に向けて視線を外し、再び窓の外を見ながら続きを告げた。


「こういう時は、キスするものなのかなって」
「・・・あぁ」


彼の目だけが動き、もう一度視線が絡む。


「なるほど」


ただ思いついたから言った言葉だった。
それなのに、彼女が拒絶せず受け入れたことに驚き、彼は目を瞠る。


「確かに、あいつならそうするな」


その様子を眺めながら、彼女は苦笑。
そして、籠が揺れないようにそっと、立ち上がって彼の隣へと座った。

一瞬傾いた地面は、すぐに水平を取り戻す。
その時には、既に彼女は居心地の良い場所を見つけて落ち着いていた。


至近距離で、再び絡む視線。
彼は彼女の睫毛が長いことを知り、彼女は彼の目にコンタクトが入っていることを知る。


「いいの?」
「いいよ。お前があたしで良いなら」
「じゃあ、目を瞑って」
「やだ。お前から瞑って」


悪戯げに言った彼女の頬を、彼は左手で出来る限り優しく包み込んだ。
親指で、いつかの夏に流しただろう涙を拭うように、そっと頬骨をなぞった。

その意図を知らない彼女は、きょとんと目を丸くしてから渋々目を瞑る。


だから彼も目を瞑り、そっと唇を重ねた。
微かに触れるだけ。そしてすぐに離れて、頬からも手を離す。


彼女は、本当にゆっくりと瞼を押し上げた。
再び視線が絡み、二人同じタイミングで苦笑する。


「実は、初めて」
「俺も、女の人とは初めて」


くつくつと笑いが込み上げてきて、二人は同時に吹き出した。


「やっぱり嫌だったか?」
「ううん。瑞夏さんなら大丈夫」
「はは、なんだそれ。あたしが男っぽいってこと?」
「ご想像にお任せシマス」


二人して、ひたすら笑い転げる。
再発しそうな悲しみを無視する為に、ただ、ひたすら。


「あ、雪斗、てっぺんだぞ!」
「本当だ。あぁ、瑞夏さん立ち上がったら揺れて危ないよ」


頂上へ着いた籠に喜び立ち上がろうとした彼女の腰へ慌てて後ろから腕を回し、彼はその体を椅子へ引き戻した。
先程よりも近い位置にきた柔らかい体に自身で驚いたけれど、それを隠して囁く。


「はい、じっとしてるように」
「じゃあ、捕まえてろよ?」


くすくすと笑い続ける彼女。
けれどその語尾は、微かに湿っていた。

だから彼は、もっと体を引き寄せて、後ろから抱き締めるように腕で捕まえる。


「いつまでこうしてて良いの?」
「もう少しだけ、このままで」


涙を堪えた声だった。
それにつられて鼻の奥がつんと痛くなったけれど、無視して腕に力を篭める。


「仕方ないなぁ、瑞夏さんは」
「・・・ほっとけ」


もう少しだけ、このままで。
せめて、世界が夜に染まるまで。

そうすればまた、涙も悲哀も隠してしまえる。


同じ感情を消化できず持余した二人は、身を寄せ合ってひたすら夜を待った。

下り始める小さな籠。
それを抱えた観覧車は、変わらず周り続けていた。







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