ぽろん、ぽろん。




せがまれて仕方なく、背もたれの無い椅子に浅く座った少女を後から抱き込むようにして、同じ椅子へ座った。
染めていないけれど柔らかな色の髪が鼻先をくすぐり、石鹸の香りが立ち上る。
くらりと眩暈を憶えそうになって慌てて目前の小さな頭を両手で掴み、左へずらした。何よと抗議をするような目線で振り返る少女に苦笑を返し、少年はゆっくりと告げる。


「鍵盤が、見えない」


夕暮れ時の薄紫に染め上げた爪が、白い鍵盤を指して、これ?と首を傾げた。


「そう。少し、首を左にずらして」


そう告げて前を向かせると、なるべく触れないよう少女の耳の横へ自分の顔を近づけた。再び眩暈の予兆。
ぐっと瞳を一度閉じて邪念を振り払い、少年は少女の右と左から自身の手を回して鍵盤へ手を置いた。そして、見る必要の無い譜面を一瞥する。


「さて、弾きますか」


気合の無い声は、少女に届かない独り言だ。
メトロノームの正確さも必要の無い演奏。少女の為のそれを、そうして少年は静かに始めた。








ダカン、の、かっこう。
とにかく早い曲を見たいとご所望の少女の期待に応えられる、唯一の曲だ。

かっこう、かっこう、かっこう―――――

左手がかっこうの鳴き声ならば、右手は景色であり物語だ。
托卵の鳥、と詰る様に言われるかっこう。けれど、母鳥は悲しくないのだろうか。自身の産んだ卵を温める事が出来ずに見知らぬ巣へ預ける、それは悲しくないのだろうか。


かっこう、かっこう。
そっと、枝葉の影から見守る母鳥。

麗らかな空の青い日、生まれた雛は自分を餌付けてくれる鳥を母鳥として認識する。
ご飯を頂戴、ご飯を頂戴、そして愛して。

与えられる侭に全てを享受する雛を見て、込み上げる切なさと憎しみ。
どうして私は、育ててあげられないの。


かっこう、かっこう。
そっと、枝葉の影から見守る母鳥。

夏の嵐、飛ばされてしまいそうな小さな体。
雨は凌げても、風は防ぎきれない。
吹く風、吹く風、遠雷、湿って冷えた空気。

お願い、お願い、可愛い子。見守ることしかできないけれど、どうか落ちないで。


かっこう、かっこう。
そっと、枝葉の影から見守る母鳥。

ある日、巣立っていく雛鳥。
さようなら、と。その背中へと、もう一度鳴く。


かっこう―








作曲者が曲に込めた想いや作曲者自身のことは勿論、この曲が生まれた時代や背景も知らない。
だからそれぞれの物語は、全て曲の雰囲気から自分が想像したものだ。

フォルテ、フォルテシモ、クレッシェンドも。
ピアノ、ピアニッシモ、デクレッシェンドも。

記号で覚えられない。だから、物語を付けてそれに合わせるように演奏をする。
お姫様と騎士の物語、王様と蛙の物語、草原、アイススケート、蝉時雨、鹿と紅葉、滝にかかる虹・・・

大した曲数が弾ける訳ではないけれど、かっこうもその物語の一つだった。








弾き終り、鍵盤からゆっくりと手を離す。
そして左右それぞれの膝の上に置いて息を一つ吐いた。決して技術がある訳ではないから、間違えないように弾くだけで精一杯だ。緊張の糸を解いてもう一度息を吐く。

さて、少年の膝の中にいる少女は動かない。
しばらく待つかと少年は天井を仰いでいたけれど、一分が経過しても無反応な為、心配になって後から顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


そう呟きながら、肩をちょんちょんと指で叩く。
すると、びくぅ、と少女肩は跳ね上がり、それから映画を観た後のような感動した顔で少年を振向いた。


「わ、急に動かないで、落ちちゃう」


そう言っても伝わる訳が無い。
無理矢理体を捻った少女は、そのまま物凄い勢いで―それこそ少年が読み取れない早さで、手を動かし始めた。


「わ、ストップ!分からないよ、そんな早くじゃ」


壊さぬように少女の手首を掴み、一旦動きを止めてやる。
何よ、と文句を言いたげな少女の視線でねめあげられた少年は、もう少しゆっくり、と唇の動きが伝わるようゆっくり告げた。


「そんなに早いと、何を言っているのか分からないよ?」


すると仕方が無いわね、と少女が肩を竦める。その大人びた動作が背伸びしているようで可愛らしいと少年は思ったけれど、それを口にすると半日は口を聞いてくれなくなるから告げないでおいた。

そうして再び繰り出される手話と、拙い声。
発音がおかしければ手振り身振りで綺麗になるよう直してやる。そうしながら読み取った少女の言葉は、少年の演奏に対する手放しの賞賛だ。

そして何より。


音は聴こえないけれど、どんなお話か聴いていたから、とっても楽しかったわ。


少年は笑みを深め、良かった、と呟く。
唇の動きが小さすぎて読み取れなかったのだろう、少女がなぁにと視線で問うたけれど、なんでもないよと打ち消した。


それにしても、貴方は良い香りがするのね。


指先で告げながらくすくすと笑い、少女は少年へ身を寄せて深呼吸する。

また、眩暈。
燻る甘さは少女の柔らかな髪からか、凛とした項からか。


「自分こそ、良い香りをさせてずるいよね。誘惑してるの?」


少女に届かないからこそ、くすり笑って自分を誤魔化す冗談を言う。
そうして思わず抱き寄せて口付けてしまわぬように気をつけながら、少年は細く呼吸をしたのだった。








音楽室での逢瀬も、今日までだ。
明日はまた、病院へ戻る事になる。

また聴かせてね、と無邪気に告げられたら。きっと返事はできないだろう。

曖昧に笑って。
そして最後に華奢な背中へ、届かないさよならを告げるのだ。




かっこう―





ぼくのおと








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