「王子様だ!」


薄暗がりの向うから、子どもの高い声で呼ばれた。
自分が呼ばれたと気付いたのは、自身が世間一般でいう「王子様」像に当て嵌まっていると思っているのではなく、単純に声と同時に小さな手で太ももを揺すられたからである。当然。


惰性で点けたまま何も考えずに眺めていたテレビから視線を動かすと、その先には湯上り用の浴衣を身に付けた小さな小さな少女がいた。
紅葉の掌で太ももを揺すりながら、きらきらとした目でこちらを見上げている。


色の褪せた橙色のリクライニングチェアから身を起こし、やれやれ、と頭を掻いた。
都心にあるスパの一角、広いスペースにずらりと並んだその椅子には老若男女、様々な人間が寝そべり休んでいる。

そんな場所で声の高い子どもが騒げば、嫌な顔をされるに違いない。
というか、自分だっておそらく眉を顰めるだろう。


一先ず、しー、と人差し指を唇にあてた。
すると少女は嬉しそうにきゃらきゃらと笑いながら、ふっくらとした指を同じように自身の唇へあてる。

そして小さな体に詰まっている力を総動員して、リクライニングチェアに登ってきた。彼も中央に寝そべっていた体を少し横にずらしてやれば、容易く椅子の上に納まる大きさだ。
正座を崩した形でちょこんと座った少女は、首を傾げて愛らしく口を開いた。


「ねぇ、あなた王子様よね?」


先ほどと同じ問い。
期待の籠もった瞳をくりくりさせる姿に申し訳なさを感じながら、彼は微苦笑して首を横に振った。


「ううん、違うよ」
「えー、違うの?」
「うん」
「だって、この前ママが読んでくれたご本に出てくる王子様は、貴方と同じ目の色だったよ?」


成る程、それが王子様と呼ばれた理由か。
納得して居心地の悪さが消えると、彼は少女のまだ濡れた髪を撫でてやった。


「残念だけど、僕は王子様じゃないんだ。ごめんね?」
「むー・・・じゃあいいわ、あなたは今からわたしの王子様ね!」
「えぇ?」


幼子の戯れに、彼は苦笑を深める。
ふふと満足げに笑んだ少女は、ころりと彼の体に沿うように寝転んだ。


「んぅ・・・」
「おねむかな?」
「もう少し、おはなしするの」
「逃げないから、寝ても良いよ」


そう言いながらも、彼は辺りを見回して少女の両親を探る。
薄暗がり、けれど吸血鬼の視力であれば十分見通す事のできる程度だ。

そうしてきょろきょろと何かを探す仕草をする女を見つけ、一先ず安堵。
大して離れた場所ではないから、その内この椅子へ辿り着き、娘を見つけるだろう。


再び微睡む少女を見遣ると、瞼は落ち小さな体は夢への落下を始めたようだ。
その隣へ横向きに寝そべり、むずがる少女の髪をゆるゆると撫でる。何度も、何度も。

果たして反射か、温かさを求めたのか、不意に寝返りをうった少女が擦り寄ってきた。
ふわりと鼻腔に広がるのは、洗い立ての髪から漂う石鹸と、ミルクにも似た甘やかな幼子の香り。

生じた哀愁は、おそらく弟の事を思い出したからだ。
自分より淡い色の瞳を持った彼は幼い頃、雷が、雨が、暗闇が怖いからと言っては泣き顔でブランケットを引き摺りベッドへ忍び込んできた。
その時も同じように髪を撫で、あやすように背中を叩き、稀に子守唄を口ずさむ事もあった。


柔らかな曲線を持った頬を指でつつく。
弾力を楽しみ、産毛を撫でるようにそっと触れながら、頭を擡げた飢餓感に蓋をした。

目の前の幼子の首筋さえ空腹を刺激してくるとは、余程自分は飢えているらしい。
それに対して悲しく思ったり罪悪感を憶える事はないけれど、少し寂しいとも思った。

ある程度の節度を持っていなければ人間と触れ合う事ができない、それが。
未来永劫、自分の血を分けた子どもを欲する事も得る事もないだろうけれど、それが当たり前だと今まで生きてきたけれど、そうして朽ちてゆくだけなのだけれど。


それを寂しいと思うほどには、まだ、諦めきれないのも事実だった。


「あらあら、この子は!すみません、ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」


少女同じように微睡み始めた彼の耳に届いたのは、女の声。
瞼を押し上げて確認すると、先ほど母親だろうと目星をつけていたその人の姿があった。


「大丈夫ですよ。お気になさらないで下さい」
「すみませんー、本当に。ほらゆりちゃん、起きなさい?パパが待ってるわよ!」


聞き覚えのある名前に、どきりとする。いつかの冬、命を奪わずに別れを告げた彼女の名前。
その面影が不意に頭を掠め、言葉に詰まった。

何を与えた訳でも、与えられた訳でもないけれど、喉に刺さった小骨のような数ヶ月の記憶。
最後に縋った両手をそっと離した事を、決して後悔していない。


一瞬にして深い眠りへと落ちてしまった娘を起すのは諦めたらしい。
母親はよいしょと言って決して軽くはないであろう体を抱き上げると、もう一度謝罪の言葉を告げて去っていった。

後姿を見送りながら、ふと気が向いて手を振る。


「さよなら、ユリちゃん」





good night , little princess






「ごめんね。君の王子様にはなれなくて」





そんな資格を、持っている僕ではないから。







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