えてして初恋は実らぬものだと、ママは訳知り顔で頷くのだ。




初(失)恋




彼に出会ったのは、ある夏の日の昼下がり。
地面がじりじりと焼ける暑い日に、涼を求めて木陰を目指し走っている時のことだった。


早く早くと駆け抜けて辿り着いた、お気に入りの欅の下。茹だるような暑さが襲い掛かる前に見つけておいたその特等席に、先客が居たのだ。幹に隠れて窓の外から教室の中をじっと見つめている、見かけぬ横顔。
青年というには幼く、少年というには可愛らしさの無い首筋が、ワイシャツの襟からそっと覗いていた。眩しさに細められた褐色の瞳は真摯な光を灯していたけれど、場所を奪われたことに腹を立てた私は、思わず彼を睨み上げる。

けれど彼は、私に気付く素振りも見せず、ひたすら視線を注ぎ続けていた。


そのままどれくらい経っただろう。チャイムが校舎に鳴り響き、ざわりざわりと空気が動き出す。
それで漸く体を動かした彼は、睨み続けていたわたしにやっと気付いた。けれど、すぐに視線を外して立ち去ろうとする。
なんて失礼な人!私はすぐさま駆け寄り、行こうとする道を塞いだ。そして先程よりも強く、もう一度睨みつける。

彼は、細めていた瞳を大きく見開いた。
何よ驚くこと無いじゃない。ずっと睨んでいたのに無視するなんて、貴方失礼ね!そう抗議の声を上げれば、褐色の瞳がふと緩んで笑みを模る。

「こんにちは。こんな美人さんに見つめられてたのに気付かないなんて、注意不足だったな」

怒ったのに肩透かしな返答をされたから、ぽかんとしてしまった。けれど思考よりも体が早く反応して、ふつふつと体温が上がってくる。
馬鹿にされた!
私は私が美人でもなければ可愛くもないことを知っている。だから目の前のこの人の言葉が侮辱に聞こえて、さっきよりもっともっと強く睨んで威嚇した。

けれど彼は、そんなことに動じない。浮かべた笑みをそのまま苦いものに変えて、身を屈めて私の目を覗き込む。

「怒っちゃった?本当に気付かなくてごめんね」

そんなこと言っても騙されないんだからね!今度はつんと横を向いて見せた。ああ、ここで許してあげるって笑えれば、可愛げってやつが手に入るのかな。
なんて考えていたら急に悲しくなってきて、結局私は横を向いたまま目を伏せると、力なく項垂れてしまった。

忙しく変わるその様子に、目の前の彼はくすくす笑って大丈夫?と聞いてくる。
大丈夫じゃないわ、乙女の憂い顔なんて見るものじゃないのよ放っておいて。心の中でそう返事をしてから、私は背中を見せてとぼとぼ歩き出した。

でも、歩きながら後の方を気にしてばかり。
…引き止めてくれるかな?そんな打算は、すぐに叶えられた。

「ねえ、元気出して?俺はいつもここにいるから、また遊びに来て欲しいな」

その言葉に、嬉しくなって勢いよく振り返る。
ぱちりと合った視線の先にはもう一度、溢れ零れたような優しい笑顔があった。またね、と、彼の唇が動く。


なにそれ反則よ反則だわ反則にも程があるわっ!
原因不明の恥ずかしさが込み上げてきて、私は全力でその場から逃げ出したのだった。



次の日、同じ時間に同じ場所へそっと足を運んでみる。
そこには昨日と同じように、じっと教室の中を見つめ続ける彼がいた。けれど今日は、私が草を踏んだ気配に気付いてすぐに振り返ってくれる。

「ああ、こんにちは美人さん。もう怒ってない?許してくれる?」

窺うように聞かれたから、反射でつんと横を向きそうになった。けど、これじゃいけない!と、あらん限りの精神力でそれを止めて、私は首を横に振る。真正面から見上げる彼は思いの他整った顔立ちをしていて、鼓動が走り出すのを感じた。

「良かった。また会えて嬉しい」

そう言って夏の日差しを浴びて微笑んだ彼の髪は、茶色く透けてさらさら揺れた。
綺麗。
見蕩れてしまった私の目線へ下りてくると、彼は首を傾げて笑みを濃くする。足の下で擦れた草から立上る青々しい香りが鮮明で、それはそのまま私の中の彼の香りとなった。

「では改めて。初めまして、美人さん。どうぞよろしくね」

どきどきするのを必死で隠し、小さく頷く。
逆光で少しの影を孕んだ彼に、こうしてわたしは恋をした。


***


その日から毎日会いに行った。
最初に言った通り、彼はいつだって欅の根元に佇んでいる。授業に出なくて良いのかな?不思議に思ったりもするけれど、人には色々な事情があるのよとママが言っていたから、私は何も聞かなかった。


私は茂みに身を隠し、彼が気付くまで、彼がしているみたいにじっと視線を注ぐ。
褐色の瞳は、他の人よりも少し茶色い色素が強いみたいだ。夏の日差しにきらきら輝くその色は、ビー玉のように透明なまま、じっと窓の向こうを見据えていた。

息を忘れているんじゃないかと心配になるくらい静かに立ち尽くす姿は、お人形のようだ。ねぇ、大丈夫?何処か遠い所に連れていかれちゃわない?
でもそう聞いた瞬間、水の泡が弾けたみたいに消えてしまいそうで、私はいつだって何も言えない。

「…あれ、ヒメがいる。声を掛けてくれれば良いのに、焦らし上手だね」

名前を伝えられずにいた私を、彼は勝手にヒメと呼び始めた。でもそれが心地よくて、訂正しないでいる。彼にだけ呼ばれる名前に、小さな独占欲が満たされる気がした。
何より大好きなママにさえ秘密のこの名前は、私を少し背伸びさせてくれるのだ。

私を見つけて綻ぶように笑う彼は、途端人間味を取り戻した。
いつだって涼しげな顔なのに、この時ばかりは本当に嬉しそうに目尻を下げるから、私はそれが誇らしい。



親友のユカリにその話をしたら、ばしばしと背中を叩かれた。

「ちょっとあんた、最近妙に可愛くなったと思ってたら!」
「え、ええ、そうかなぁ?可愛くなった?」
「うんうん、なんか艶があるもん!」

ユカリはとっても可愛い上に、器量良し。引く手数多の自慢の親友だ。
いつもは私に辛口だけれど、今日ばかりは褒めてくれるから、私は鼻高々になる。

「それでそれで、彼の名前は?外見は?素敵な声なの?」
「う。名前はまだ聞けてないの…」
「もう、本当に鈍いんだから!そこは強く押していかなくちゃ駄目よ?せっかく好きになったんなら、頑張ってオトさなくちゃ!」
「えぇー…でも私はユカリみたいに可愛くないし、要領も良くないから。ちょっとお話しできるだけで幸せかなーなんて」
「だ・め・よ!」

ユカリはきりっと目を吊り上げて、私に接近してきた。
もう少しで鼻が付きそうな位置にあるその顔は、怒っていても可愛らしく迫力がある。
思わず身を引きそうになるのを堪え、目を逸らすのも我慢していると、ユカリは私の顔に息がかかることなどお構い無しに、鼻息荒く叫ぶのだった。

「いい、押して押して押し倒すのよ!目指せ甘酸っぱいファーストキス!分かった?!」
「え、えぇ、えぇぇぇぇ?!むむむ無理だよ、そんなの絶対む」
「分・か・っ・た・わ・ね?」

ぐいと近寄られ、鼻がちょんとぶつかる。
私、女の子に迫られても嬉しく…ううん、ユカリは可愛いから嬉しいけど、でもやっぱりあんまり嬉しくない!

「わ、分かったよぅ」

ど迫力でそこまで言われ、頷く以外に選択肢は無かった。素直にこくこくと頷いてみせると、ユカリは満足したらしく、体を引いてくれる。

「大丈夫、あなたは可愛いんだから。このユカリ様が保証するわ、自信を持って、ね?」

最後にそうやって優しく言ってくれた親友に、嬉しくなって思わずじゃれついた。
ありがとう、ユカリ。あなたがそうやって言ってくれるから、私は今までだって挫けずにいられたんだよ。


***


「ヒメ」

親友に勇気付けられた私は、一日一日、昼下がりの小さな逢瀬を重ねていった。
くしゃりと笑うその顔は、何度見たってどきどきしてしまう。


けれど。
上機嫌で彼の元へ向かう私は、そこまで馬鹿では無かったのだ。


私は相変わらず、彼が気付いてくれるまで、溢れんばかりの好きという気持ちを抱えてその横顔を見つめている。
幾度も幾度もそうしている内に、気付いてしまったのだ。私が彼に抱えた想いと同じものを抱えて、彼が教室の中に視線を注ぎ続けているんじゃないかな、ということに。

ビー玉の中に潜む、恋に浮かされた人だけが持つ熱情と陰り。
嫌という程身に覚えのあるそれは、陽炎の見せるまぼろしなどではなく、確かにそこに存在していた。

彼は私に笑いかけてくれる。
けれど、窓の中を見つめるように、真摯な眼差しを向けてはくれないのだ。



ある日、私は彼といつも会うお昼頃よりもっと早い、朝の時間に欅の根元へ向かった。辺りを窺いながら幹にしがみ付き、足場のある所まで登ると、葉に隠れるようにして身を伏せる。
丁度登校時刻だったらしい。目の先にある窓の中では、次々とやって来た女子生徒達で席が埋まっていった。

彼の目の高さ、そして見つめている向きを思い出して、自分もそちらへ視線を注ぐ。その先にある席は今、黒髪の女の子が一人座っていた。
病的な白さを持つ肌に、やつれた頬。ぼんやりと黒板を見詰める瞳に力は無く、項でざっくりと切り揃えられた髪が妙に痛々しかった。

彼女の後ろに座るふわふわした印象の女の子が、優しく笑って話しかけている。
振り向かずにそれに頷いた彼女は、取り落としてしまいそうな手付きで鞄から教科書を取り出すと、角を揃えて机の上に置いた。


彼がいつも見つめているのは、貴女なの?


何処にでもいる、普通の女の子だった。
取り立てて可愛い訳でもない、魅力的に微笑む訳でもない。そのままずっと観察し続けていたけれど、最初に持った印象は大して変わらなかった。
ただただその場所にいることを放棄したいと願うように、俯いて影を踏み続けているような女の子。
見ているだけで、私まで悲しくなってしまうような顔をした人だった。

「ヒメ」

突然、いつものように名前を呼ばれた。驚いて体を震えさせると、彼は穏やかな笑みを浮かべて立っている。
気付けばだいぶ時間が経っていたようで、日は既に空の高い場所にいた。ゆっくりと欅へ歩み寄ってきた彼に、私は罪悪感を覚える。

「俺がいつも何を見ていたのか、気になったの?」

怒らないから言ってごらん?そう促されて、渋々頷いた。

「世界の終わりみたいなくらーい顔した女の子でしょ」

くすくすと笑いながらそう言うのは、私の罪悪感を少しでも消そうとしてくれているのだろう。そんな優しさに、ずきずきと心が痛む。
定位置に収まっていつも通り窓の中を…あの女の子を見つめる彼につられて、私ももう一度そちらへ視線を注いだ。彼女は授業が全く耳に入っていない様子で、腿の上で拳をぎゅっと握り、ただひたすら俯いている。

あの子はだぁれ?
呟くようにそう問えば、彼はちゃんと意味を汲み取ってくれた。

「俺の大事な女の子、だよ」

ああ、やっぱり。
貴方はずっと、貴方の好きな人を見つめていたのね。

失恋が確定した私は、心がしおしおと萎んでいくのを何処か遠巻きに感じていた。そんな様子を知ってか知らずか、彼はそっと、掌を差し出してくれる。
思わず目を瞑り首を伸ばして、それが頭を撫ぜるのを待った。

…でも、それは待っても待っても私の元まで辿り着かない。
嫌われてしまったのだろうか?不安になりながらこっそり目を開けると、彼は間近で私の顔を覗き込み、悲しそうに微笑んでいる。

「見えていても、やっぱり触れられないんだね」

確認するように、今度は私の頬に向けて掌が伸ばされる。けれどそれは、私に触れることなくすり抜けた。
ひやりとしたのは錯覚だろうか。

全身が総毛立つ。

考えたくなくて、首を傾げて見せた。
そんな私を裏切るようにもう一度、彼の掌が背中を辿ろうとしてすり抜ける。


ねぇ。
何故すり抜けるの?
何故触れられないの?
何故昼間からずっとこんな場所に居たの?
何故女の子ばかりの学校の中で、貴方は誰にも咎められなかったの?


今まで無視してきたことが、嘲笑うように私の中を駆け巡った。
縋る様に彼を見上げても、悲しそうに顔を綻ばせているだけで。

彼は背中から真っ直ぐお日様の光を浴びている。それが髪を茶色く透けるだけでなく、向こう側の景色を淡く映していることに、私は気付きたくなかった。


ぞわり。体が大きく震えるのを感じる。
その様子を間近で見ていた彼は、どう思ったのだろう。

「ヒメ、俺は…」

ああ、微かな笑みも全て消え去って、ただただ悲しさだけが残ってしまった。

やだ……怖いよ。怖い、怖い、怖い。
彼がそれ以上何かを言う前に、私は木の幹から飛び降りて駆け出す。


振り返れないまま漸く足を止めたのは、ママの待っている家の前。
目からはぼろぼろと涙が零れるけれど、私はそれを止める術を知らなかった。


***


鳴きながら帰ってきた私を、ママは驚きながらも迎え入れてくれた。

気の済むまで涙を零し、ホットミルクをちびちびと舐めて漸く落ち着いてきた私は、ママに近付いてその温もりにほっと息を吐く。空調の効いた部屋で、それはとても心地良い温度だった。

その様子を黙って見ていたママは、どうしたの、とは聞いてこない。
大きくなったのだから、話を聞いて欲しいなら自己主張しなさいということだろう。話すと決めるのも話さないと決めるのも、聞いて欲しいと決めるのも聞いて欲しくないと決めるのも、全部私の責任なのだ。

だから私は、ぽつりぽつりと今までのことを話した。
好きな相手ができたこと。毎日毎日会いに通っていたこと。私にくれる優しくて寂しい笑顔のこと。その相手には大事な大事な女の子がいること。だから私は失恋してしまったこと。そして…どうやら、その相手は生きていないようであること。


行ったり戻ったりまごついてしまう私の話を、ママは急かす事無く聞き続けてくれた。
途中で、そう、ええ、うん、という相槌があった他は何も言ってくれない。自分で何を話しているのか見失いそうになる時も、助けてくれなかった。

だから私は話しながら自分の考えをまとめて、こういうことなんだと思う、と自信無く付け加える。そんな拙い話でも辛抱強く頷き続けたママは、私が最後まで話し終わったことを告げると、神妙に目を伏せたのだった。

何か変なことを言ってしまっただろうか。
そもそも生きていないかもしれないものが見えているという段階で、娘が正気かどうか疑っているかもしれない。
どうしようと血の気が引いていく私は、慌ててフォローをしようと口を開いた。

そんな娘の焦りなどママは当然お見通しで、落ち着きなさい、と静かに言われる。
ぴきりと固まった私は、口を閉じてしおしおと床に項垂れた。

こほん。ママは小さく咳払いをして、閉じていた目を開く。
窺うように見上げれば、そこにあるのはいつも通りのお日様みたいな笑顔だった。

「それで、あなたは何を落ち込んでいるのかしら?」
「何って…?」
「失恋したこと?相手がいわゆる幽霊だったということ?」
「それは…」

思い出すのは、去り際に見た彼の悲しそうな顔だ。

「彼を傷つけちゃったかもしれないこと。触ろうとするとすり抜けちゃうって気付いてからすぐ走って帰ってきたから…私のばか……」
「優しいのね」
「そんなことないよ…優しかったらあんな風に逃げないもん」
「失敗は誰にでもあることよ。気にしちゃ駄目」
「にゃう」

いい?とママは首を傾げる。
それはいつものママとは違う、そう、恋する乙女のような顔だから、私は思わず息を呑んだ。そう、きっと、ママとパパが恋に落ちたからこそ私はここに居る。

「一番大事なのは、あなたがどうしたいかよ。他に好きな子がいるならもうどうでもいい!と思うならさっさと次の誰かに恋すれば良いし、おばけなんて怖い!と思うならもう二度と会いに行かなければ良い。私は思うの。相手がどう在ろうと、自分の気持ちを大切にしてあげて欲しいなって」
「…うん」
「あなたはどうしたいの?」
「私は……」

そんなの決まっていた。
だからそれを胸を張って言ったら、ママはそうしなさいと背中を押してくれる。

「あなたは本当に優しい子ね。でもね、えてして初恋は実らないものなのよ」

うん、と良い子のように返事をして、目を擦る。
訳知り顔で頷く姿に、ママにも昔好きだった人がいたのかな、と思った。


***


次の日、近くの茂みからそっと欅の下を窺った。
そこには相変わらず、窓の中をじっと見つめる彼が佇んでいる。
日陰にいるから分かり辛いけれど、よく目を凝らせば、身につけている白のブラウスからやんわり向こう側の景色が見えていた。
ああ、やっぱり昨日のことは夢ではなかった。そう確認をして、ぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。

ざっ

そうして気付いて貰えるよう大きな音を立てて茂みを出た私は、一目散に彼へ向かって駆けて行った。
目論んだ通り、彼は私がいることを認識する。名前を呼ぼうとしたのだろう、その口が開いたけれど、私はそれを無視して彼に突っ込んでいった。

普通であればぶつかって跳ね返る。けれど半透明な彼の体にぶつかった私は、当然のようにすり抜けて向こう側の地面へと転がった。

「何やってるの、怪我は無い?!」

驚いた顔をした彼は、慌てて私に駆け寄ってくる。しゃがんでくれたことで目線が近付いたのを良いことに、私は身を起こし、そっと頬擦りをした。触れるか触れないかのぎりぎりの位置を保つのは大変だったけれど、それが私に出来る最大限の意思表示だから。

「ヒメ?」

そっと離れて、至近距離からじっと見上げる。
ねぇ、昨日は逃げちゃってごめんね?貴方が何者であろうと、やっぱり私は貴方が好きよ。だから傍に居ても良いかな?

注ぎ続けたその意味を正確に把握してくれたのかは分からない。
けれど、怯えることなく大人しくじっとしている私の様子に、彼はいつしか目尻を緩めた。

「俺が怖くないの?」

頷く。

「また会いに来てくれる?」

頷く。

「いつか俺がいなくなるまで、友達でいてくれる?」

少し躊躇って、でも頷く。
本当は恋人になりたいな、なんて。そんな我侭、言わないよ。
でも、いつでも考え直してくれて良いのよ?


そんな風に考えてつんと横を向いたあと、ちらりと窺う。

「ヒメは本当に可愛いね」
「にあ」

彼は、堪えきれないという様子でくすくす笑っていた。
茶色く日に透ける髪が、さらさらと楽しそうに揺れる。

仕方ないわね。
私が貴方をそんな風に笑わせてあげることができるのなら、いつだって傍に居るわ。

心の中でそう呟いて、もう一度頬擦りをして離れると、そこには。
零れ落ちたような、優しくてあったかい笑顔があった。


***


その日から彼が青い青い空に溶け消えるように居なくなるまで、私はずっと寄り添い続けた。

晴れの日も、雨の日も、風の強い日も、嵐の日も、ずっとずっと傍に居て、俯いてばかりいる暗い顔をした彼女を、一緒に見守り続けた。
ねぇ、貴方が見えない女の子より、貴方の声をきくことができる私にしておきなよ、って何度も泣きそうになりながら。
そんな日は結局最後まで来なかったけどね。


彼の見守り続けたあの子がどうなったのかは、また別のお話。

だから私は、入道雲の浮かぶ夏の空に、青々とした草むらに、身を隠した茂みに、通い続けた欅に、あの頃のことを思い出しては、見事に散った恋の話を娘にするのだ。

「えてして初恋は実らぬものなのよ」

でもね、どんな時でも、あなたはあなたらしく居てね。
そう伝えれば、寝そべる私にじゃれついてくるその子は、よく分かんないと首を傾げる。
いつか分かる日が来るわ、などと優しく囁いて、私は可愛い娘に頬ずりをした。


忘れられない初恋を、私は大切に心の中へしまっている。
あの時貰った彼の笑顔は、今もまだ、私の宝物なのだ。




2011.10.27.

戻る