確かに其れは、恋でした。 さよならダージリン 「ガリア戦記?渋い本を読んでますね」 くすくすと笑みを含みながら言われ、思わず睨み上げてしまった。 カウンターの向うに居るのは、栗色に染めた髪がよく似合うウェイターだ。 白く糊のきいたシャツに、黒いギャルソンエプロン。 目を細めて人懐こく微笑む顔に、けれど純南はいらいらを募らせた。 「私、本は静かに読みたいんです」 突き放すように言い、文字の列へ視線を戻す。 失礼致しました、という声が遠くで聞こえたけれど、それに反応する余裕が無い程には物語へ没頭していたから、返事はしなかった。 * 路地を一本曲がった所で見つけた喫茶店。 半地下の店舗はダウンライトの温かな光に満たされ、珈琲豆の香りが鼻腔をくすぐる。 カウンター席の端っこへ陣取り、本を読むのが日課となっていた時期だった。 * 久しぶり来た喫茶店、静かに置かれた白いカップ。揺蕩う琥珀の液体はマンデリンだ。 湯気を吸込みその香りに頬を緩めた時、カップの隣にもう一つ、何かが置かれる。 「?」 小皿に入った金平糖。 白、橙、桃、薄緑…小さな星が詰まったそれを一瞥した後、それを置いた手の主を見上げた。 そして一言。 「頼んでないですよ?」 すると栗色の髪のウェイターは、苦笑して答えた。 「先日のお詫びに」 「先日?」 「読書の邪魔をしてしまった、そのお詫びです。嫌いですか?」 「いえ、金平糖は好きです…あ、ガリア戦記を読んでいた日の事ですか?え、あの、気にされてたんですか?」 「友人達から、お前は一言多いとよく叱られます。あの日以来しばらくお見掛けしなかったので、二度とお越し頂けなかったらどうしよう、と思っていました」 あーと呻き、純南は眉を下げる。 「私、なにかに集中していると周りが見えなくなるんです。あの時の事は今こうして言われなければ思い出しもしなかったくらいなので、逆に気を病ませてしまってごめんなさい」 「それなら良かったです。あ、でも金平糖は召し上がって下さいね?」 ほっとした笑みを浮かべたウェイターが、首を傾げて小皿をすすめてきた。 逆にそれを申し訳なく思ったけれど、断ったら断ったで気を病ませてしまいそうだから大人しく手を伸ばす。 指先で抓み、一粒を口の中へ。 じわり、と広がるささやかな甘さに笑みを浮かべると、純南はもう一度ウェイターを見上げて言った。 「ありがとうございます、美味しいです」 そう言うと、首を傾げて笑みを返される。 それがくすぐったくて、頬に血が集まるのを感じた。 だから純南は、居た堪れなくなる前に脇へ置いていた本へ手を伸ばし、再び物語へと没頭していったのだった。 * 誰かに言いたくて、幼馴染のあの子にだけは喫茶店の場所を教えた。 そうしたら彼女はすぐに珈琲を飲みに行って、隠れ家だな、と秘密を共有する仲間の笑みを浮かべてくれた。 ただ、栗色の髪のウェイターは少し騒がしいな、と。 その言葉が胸に刺さって、私は好きだけどな、とは言えなかった。 * 「ソフィーの世界?」 白いカップと共に少し躊躇うような声音で問われ、弾かれたように顔を上げる。 そこには相変わらず栗色の髪のウェイターが居て、小首を傾げていた。 「あぁ、はい。そうです」 「あんまり小説を読まないんですね」 「んー、読まない訳じゃないのですが、どれが面白いのか分からないから選べなくて」 「なるほど」 そう呟いた彼は、視線を宙に彷徨わせた。 何を考えているのだろう?そう思いながら、純南は差し出されたカップを両手で包み込むように持ち、口元へ運ぶ。 相変わらず香り高いマンデリンは走り始めた鼓動をぎりぎりの所で抑えたけれど、上目遣いでウェイターを窺う事は止められなかった。 次の言葉を待ちながら、苦い琥珀を一口。 そうして息を吐いた所で、ようやく彼は視線を此方へ戻し、口を開きかけた。 けれど、 「オーダーお願いしまーす!」 後ろの女性三人組みテーブルから、ウェイターへ声がかかる。 それに対してはい、と元気良く返事をした彼は、失礼しますとささやかに告げカウンターを出て行った。 「………」 置いてきぼりを喰らった気持ちに襲われた純南は、むぅ、と唸ったもののすぐに読みかけの本を手にする。 けれど耳は後ろから聞こえる会話を拾い、心はざわりと揺れた。 彼が何か冗談を言ったのだろう、笑い声があがる。 オーダーを聞いたのなら、すぐに用意をするべきなのでは? そう思うのはきっと自分があんな風に話せないからで、だから低い声と高い声が交互に遣り取りする様に苛立ちが募った。 本を閉じて鞄へしまい、せっかくのマンデリンを一気に飲み干す。 代金がぴったり用意できず多めに置き、コートを引っ掴んで床へブーツの踵を下ろした。 かん、と響いた足音に、彼が振り向く。 けれどそれは知らん振りをして、バタバタと段数の少ない階段を上った。 取っ手を引っ張るとベルのついた扉がカランと鳴り、外へ体を滑り込ませる。その一瞬、店内を振向いた時に視線が合い、彼は驚いた次に悲しそうな目をしていて。 それがほんの少しだけ、後ろ髪を引っ張った。 * 本当ね、あの栗色の髪のウェイターさんはちょっぴり騒がしい。 そう伝えると、幼馴染の彼女はうむ、と神妙に頷いた。 * それからは、カウンターではなく奥まった場所にあるテーブル席へ陣取るようになった。 此処であれば、カップを運んで来た時しか顔を合わせずに済む。そう思ったのだ。 案の定、本に集中している振りをしていれば、カップを運んで来た時さえも話し掛けられない。 こちらへ視線を投げてくるのは気付いていたけれど、ただただ本を読む振りを続けた。 ソフィーの世界の栞は、まだ半分より手前にささったままだ。 カップの半分まで珈琲を飲んだ頃、後ろから以前と同じような弾ける笑い声が響いた。 眉根を寄せて、思わず振向く。 そこには相変わらずにこにこと笑う栗色の髪のウェイターと、二人組の女性客が居た。 知らず知らず、ダンボになった耳が声を拾おうとする。 けれど彼の少し低い声は、奥まった席には届き辛かった。だから、女性客の声を聞き、会話の内容を脳が勝手に弾き出す。 「えー、この珈琲は君が淹れてるんですかぁ?美味しいね」 「ありがとうございます。でも、マスターに比べれば自分なんてまだまでです」 「そんな事無いですって、自信持って下さいよー」 「そうだよねぇ。あ、ところでお名前伺って良いですかぁ?」 「はい、栗本といいます」 「あはは、本当に?!だから髪も栗色なのー?」 「そうなんですよ。覚えやすいと思って」 「本当だねぇ、覚えやすい!よろしくね、栗本くん」 クリモト、さん。 突然手に入れたその名前を舌の上で転がし、思わず笑んだ。 ただの苗字。それを盗み聞きで知っただけだ。 けれどその響きは、宝石のように純南の中で輝いた。 * 機嫌が良いけど、どうしたんだ? そう問われ、別に何も無いよ、と答えた。 変な奴、と苦笑した幼馴染は、それ以上を追求してこなかった。 本当に、何か特別な事があった訳では無いのだ。 こんなちっぽけな大事件を報告したって馬鹿にされてしまいそうだから、言いたい衝動を堪えて内緒にした。 * カウンターよりもテーブル席の方が彼と客席に居る誰かとの会話がよく聞こえる事に気付き、それから純南は好んで後者へ陣取るようになった。 稀に聞こえてくる内容から、その人となりを知る。 実家は別の県にあり、一人暮らしをしていること。甘いものが好きなこと。血液型はO型。会話をしているとつい面白いことを言わないといけないという使命感に駆られること。そして、実は珈琲が苦手で、紅茶を淹れる方が得意であること。 断片で与えられる情報を素に、勝手に作る彼の残像。 都合の良いそれと何処かへ遊びに行ったり会話をしたりする空想をするのは、まるで自慰行為のようだ。 けれど、淡い想いを前にそれは綺麗なものへとすり替えられる。 果たして、これは恋なのか? その答えを、純南は持たなかった。 * ある日、幼馴染のあの子と一緒に買い物へ行った。 そして近くにあったカフェで休憩している時、彼女は徐に言ったのだ。 お前、よくミルクも砂糖も入れないで珈琲飲めるな。 言われて気付いた。 そういえば、昔はどちらもたっぷり入れて飲むのが好きだったけれど、今は苦味を苦味として飲み干すのが好きだ。 大人になったんだよ? 茶化してそう言ったら、ばーか、と笑って言われた。 ずっと一緒に居る彼女だから、喫茶店へ通う理由になってしまったあの人の事は話したくなかった。 軽い、と、思われたくないんだ。 大して話した事も無い相手に、焦がれる自分を。 * 春がくる直前、寒い日が続いた。 * カラン、と音を立てて店内へ入ると、いつもの奥の席には先客が居た。 純南は小さく舌打ちをして、以前の陣地であるカウンターの端へ座る。 いらっしゃいませ、と柔らかな声で迎えるのは、根元が少し黒くなってしまった栗毛の彼。 「………」 あまりにも普通な対応に肩の力が抜けて、思わず笑みが零れた。 「こんにちは、」 クリモトさん、と言い掛けた唇を閉じる。 盗み聞いた事を知られるのが怖くて、名前は呼べなかった。 「こんにちは。今日はカウンターなんですか?」 「だって、いつもの席が埋まっているから」 「なかなかカウンターに来てくれないので、寂しかったんですよ?」 くすくすとおどけて言われた言葉に、心臓が早くなる。 けれどそれがばれないように、つんと横を向いて言った。 「他にもお客様はいるじゃないですか」 小首を傾げた彼から、返答は無い。 けれど穏やかな笑みで席を示されて、純南は淀み無く椅子へと収まった。 温かく蒸したタオルを渡され、寒さで強張っていた体が緩むのを感じる。 そしてそのまま、いつも通りのオーダーをしようとした純南は、けれど開いた唇を閉ざした。 その様子に気付いたのだろう、彼は不思議そうに目を瞬く。 「メニューを見せて頂けますか?」 「あぁ、はい。どうぞ」 「ありがとうございます」 「マンデリンじゃないんですか?」 「たまには違うものを飲もうかなと思って」 ね、と肩をすくませて見せると、目元を細めて微笑まれた。 おそらく年上だろうに、思わず可愛いと思ってしまった純南はほんの少しだけ頬を染める。 けれどそれを気取られないよう顔を隠す角度でメニューを持ち、ページを捲った。 何種類かの珈琲。 そしてその次に書かれた、紅茶の名前。 「…あの、」 そろそろと、メニューの上から瞳を覗かせて話し掛ける。 「はい?」 「おすすめの紅茶、ありますか?」 そう聞くと、彼の笑みが余計に深くなった。 珈琲よりも紅茶が好きというのは本当らしい。彼はカウンターの中から此方へ身を乗り出し、メニューを覗き込んできた。 常より近い位置にある顔。 それに跳ねる鼓動を、必死で抑える。 「どんな紅茶が飲みたいですか?」 「ど、どんな?」 「例えば、ミルクを入れて飲みたいか、ストレートが良いか」 「ストレートですっきり飲みたいです!」 勢いよく言うと、深く頷かれる。 「紅茶はあまり飲まれた事が無いんですよね?」 「う、そうです」 「それじゃあまずは、ダージリンでいかがでしょう?」 「じゃあそれで!」 「かしこまりました。では、少々お待ち下さい」 メニューを回収し伝票を書き付けるその指先を見詰めていた純南は、けれど我に返ると慌てて鞄から本を取り出した。 いつも通りでいないと、怪しまれてしまう。 そう思い、栞を挟んだページを開いたのだ。 けれど追っても追っても文字は頭に入らず、口からは溜め息ばかり。 不毛なそれを幾度か繰り返し、結局は諦めて本を置いた。 静かに流れる時間。 半分地下にあるからだろうか、外界と隔離されたような気分になる店内は、やはり秘密基地のようだ。 天井近くにとってある採光の窓からは、灰色の雲の隙間から零れる日の光が差し込む。 天気の悪い日は、室内でゆっくりお茶をするに限る。そう思い、純南はもう一度溜め息を吐いた。 「あれ、今日は読まないんですか?」 「ひゃっ」 顔を向けていたのとは逆から声をかけられ、肩を揺らす。 「すみません、驚かせてしまいましたか?」 そう聞かれ、勢いよく振り返ってぶんぶんと首を横へ振った。 そうしながら、あぁもう久しぶりに話をしたら全然駄目だ、と今度は内心溜め息を吐く。 けれどその様子を全く気にせず、栗毛のウェイターは空のティーカップをテーブルへ置いた。 白地のカップの円周は淡い水色の太い線がぐるりと走っており、その中央にはやはり白で繊細な花の模様が描かれている。ソーサーも同じように模様が施してあり、そして全て縁が金色に染められていた。 「可愛い!」 「お気に召して頂いたようで、良かったです」 そう言った彼は、右手に持ったティーポットから紅茶を注ぐ。 珈琲よりは控えめな香りを伴った湯気がのぼり、純南はそれに口元を緩めた。 「良い香りですね」 「ありがとうございます。砂糖をお持ちしますので、一度ストレートで飲んでみて下さい」 カウンターへティーポットを置いてコゼーを被せると、彼は一旦その場を離れた。 その間に、恐る恐る繊細なカップへ手を運ぶ。 落としてしまいそうだな、と思いながら指先で取っ手を握り、持ち上げて口元へ近付けた。 ふわり、と香りが強くなる。 そのまま一口飲むと、その紅茶は驚くほど苦味が無くて美味しかった。 「いかがですか?」 シュガーポットをソーサーの近くに置いた彼に問われ、純南は瞳を輝かせながら答える。 「びっくりするほど美味しいです!ティーパックの苦い紅茶しか飲んだ事が無いので、こんなに美味しく淹れられるんだ、って驚きました!」 「ティーパックの葉も、中身を出してきちんとポットで淹れればそれなりに美味しくなりますよ」 「えぇぇ、でもそれも淹れ方次第ですよね?凄いですね!」 そう言いながら、もう一口。 本当に美味しくて緊張も意地も何処かへ飛んでいった純南へ、彼も嬉しそうに笑い掛けた。 「良かった、」 「へ?」 「最近避けられているようだったので、少しほっとしました」 「っ」 唐突に爆弾を投げられ、純南は顔を真っ赤にした。 けれどそれを気取った風の無い彼は、底の迫るカップへ紅茶を注ぎ足す。 「懲りずにまた、カウンターにも座って下さいね?」 「う、はい」 「それから、この紅茶はご馳走させて頂きます」 「え、それは駄目です!ちゃんとお支払いします、」 「以前、お釣りをお渡しできなかった日があったので、そのお詫びということで」 ね、と念を押すように言われ、何も言えなくなった。 その懐っこい瞳で見詰められて、拒否できる訳が無いのだ。 「ぁ、りがとうございます」 「いえいえ、どういたしまして」 思わず俯いた言葉でさえ、丁寧に返事を貰える。 その事実に心が浮き立ち、純南は頬の赤さなど関係無しに微笑んだのだった。 * 籠に放り込んだのは、セイロン、アッサム、ニルギリ。 とりあえず聞いた事のある名前を手に入れ、思わずにやりと笑った。 どうした、お前最近気持ち悪いぞ?とあの子言われたけれど、そんな事は気にしない。 たまたま家にあったティーポットで、とりあえず紅茶を淹れてみた。 …あまり美味しく淹れられなかった。 * 「どうすれば美味しい紅茶を淹れられるか、ですか?」 頷く上目で窺うと、うーんと唸る栗色の髪のウェイター。 実際見て貰うのが早いんだけどな、と呟きながらも手元では器用にポットからカップへキャンディを注いだ。 相変わらず、良い香りが湯気と共に漂ってくる。 それを思い切り吸込み、純南は体の緊張を解いた。 最近は珈琲ではなく紅茶を飲む事が多かった。 甘いの、だとかすっきりしたのを飲みたい、という風に伝えると、それに沿った茶葉を選んでくれる。 そしてその紅茶は自分で淹れるものよりも数十倍美味しいので、本を読む事よりも紅茶を楽しむ事が目的になっていた。 「とりあえず、一番大切なのは、」 思考に沈んでいる所に、するりと侵入してきた明るい声。 それに持ち上げられて、視点が目の前の人懐こい顔で焦点を結んだ。憚り無く笑みを浮かべた唇。 「美味しくなれ、って想いながら淹れる事ですよ」 言われた意味を理解しようとして、ぽかん、と一瞬目が丸くなった。 けれど次に、純南もくすくすと笑い出す。 「なるほど、確かにそれは大事ですね」 「あ、馬鹿にしてますね?でも言霊って本当にあると思うんです。言って損をする訳でも無いですし、美味しくなれーって言いながら淹れるのは本当に大事だと思います!」 ね、と同意を求める仕草にこくこくと何度も頷いた。 「じゃあ、このキャンディもそうやって淹れて下さったんですか?」 「勿論です。紅茶も珈琲も、いつもそう言いながら淹れてますよ」 「マスターに騒がしいって注意されないんですか?」 「マスターが近くに居る時は、心の中で念じます」 視線を合わせ、笑い合う。 それは幼馴染のあの子とするような秘密を共有する笑みで、純南は嬉しさで苦しくなった。 けれど、そんなささやかな時間もすぐに終わってしまう。 「すみませーん」 テーブル席からの呼ぶ声に元気よく返事をした彼は、失礼しますと言ってカウンターを離れて行った。 いつかのデジャブ。 オーダーを聞いた後、やはり雑談をしていた彼らから笑い声が漏れた。 それは棘のように刺さりはするけれど、純南を席から追い立てるほどの脅威は無い。 例え自分はたくさんいる客の中の一人で、誰にでも同じように紅茶の話をしているのだろうけれど、それでも話をして笑い合えるのだ。 その後、店内は珍しく混み、彼とマスターは忙しそうに接客をしていた。 だから純南は、また次に来た時にゆっくり話がしたいな、と無防備に思い席を立ったのだった。 * 確実な明日なんて無いと、知っていたのに。 * インターネットで調べた方法で紅茶を淹れた。 おいし?と聞くと、彼女は素直に頷く。 けれど、おいしくなーれーっていっぱい言いながら淹れたんだよ、と言うと、変な顔をされた。 どうした?お前、最近本当に変だぞ。そう言われたけれど、にやけた顔は直らない。 あの人と同じように紅茶を淹れる自分が嬉しいだけ、なんて、言えなかった。 * そして、春がくる。 * カウンターの中にはマスターが居た。 珍しい、と思いながらも端っこの席へ座る。すると柔和な笑顔でメニューを差し出されたから、小さくお礼を伝えて受け取った。 ぐるりと店内を見渡す。 けれど彼の姿は無く、休憩中かな、とぼんやり考えた。 「マンデリンをお願いします」 「はい、かしこまりました。少々お待ち下さいね」 渋い灰色の髭。そこから漂う安心感はあるけれど、それよりも今は刺激の方が欲しい。 そう思いそわそわともう一度店内を見渡した純南は、深く溜め息をついて鞄から本を取り出した。 しばらく後に置かれた白いカップ。 視界の隅に現れたそれは久々に見るもので、濃い香りには懐かしささえ覚えた。 「良い香りですね」 「ありがとうございます」 瞼を落とす、穏やかな礼。 同じように目礼を返し、純南は一口飲んで喉を潤した。 熱い液体が喉を通って胃に落ちる。 いつもはそれで落ち着くのに、この日ばかりはそわそわが止まらなかった。 マスターは、声の届く距離でグラスを拭いている。 その静かな横顔に意を決し、純南は口を開いた。 「あの、あの人は今日はお休みですか?」 「あの人?…あぁ、栗本の事でしょうか?」 「そうです!髪を栗色に染めたっ」 あぁ、と得心したした相槌。 けれど次に、マスターの笑みはこちらを気遣うものになった。 なんだろう、と目を丸くする。その様子に躊躇いを見せたけれど、結局、髭に覆われたその口は再び言葉を紡いだ。 「彼は、先日辞めたんですよ」 「え…?」 世界から音が無くなる。 けれどすぐに回転を始めた思考は、告げられた内容を理解して再びフリーズしそうになった。 そして、反射で問う。 「どうして、ですか?」 「大学を卒業して、地元で就職をするそうです」 「そうなんですか、」 あぁ、と口の中で呻いた。 無防備に、次回を信じていた自分を後悔して。 マンデリンを飲んだ筈なのに、喉がからからになる。 ごくりと唾を呑んだけれど、それは何の足しにもならなかった。 その様子を慮る表情で見詰めていたマスターの視線に気付き、純南は気力を最大限に使って笑みを浮かべる。 困らせてはいけない。そう思い、そうですか、知らずに聞いてしまって失礼しました、とだけ手早く言った。 ゆっくりと、マンデリンを飲み下す。 回転を始めた思考は加速をつけてぐるぐるし続けるから、それをどうにか遅くしようと本を伸ばしてとにかく文字を追った。 今まで意識していなかった、BGMが耳を掠める。 そのメロディーラインを追ってもみたけれど、全てに集中できなかった。 思わず溜め息をつき、文字列から視線を上げる。 今度は天井の木目を数え始めたところで、いつものように、いつもとは違う人から聞かれた。 「ソフィーの世界ですか?」 「はい、そうです。最近、あまり読み進められていなくて」 紅茶を飲みにくるようになってから、この本の栞は一向に進んでいない。 自嘲しながら言うと、マスターは少しだけ目を見開いてからもしかすると、と前置きをした。 「お嬢さんの事かなぁ。あいつが、カウンターでマンデリンを頼んで本を読み出した女の子が居たら、これを渡してくれって」 「え?」 どきり、と鼓動が跳ねる。 マンデリンで本。自分以外に、居るのだろうか? 肯定も否定もするより前に、マスターは振り向いた場所にある棚の中から折り畳んだ白い紙を取り出した。 はい、と言って差し出され、純南は躊躇いながらも受け取る。 丁寧に折り畳まれたそれをゆっくりと広げると、そこには几帳面な文字が書かれていた。 「おすすめの小説と、紅茶の淹れ方…?」 いつか話題となり、けれど終結することのなかったそれ。 自分がいつもいるただの客以上であった事を知るよりも、約束を果たしてくれたその実直な姿勢につい泣きそうになって慌てて笑顔を浮かべた。 馬鹿。 そう言いたくなって、堪える代わりに笑みを深める。 その様子を間近で見て知っていた筈なのに、知らない振りをしたマスターが柔らかく声を掛けてきた。 「紅茶、お好きなんですか?」 「好きに、なりました。彼に色々教えて貰って」 そう答えると、目の前の普通にしていても皺のある顔が更に目尻に皺を寄せて笑む。 「そうですか。粗忽者でしたが、あいつも良い接客をしていたんですね」 はい、と。 答える代わりに頷いた。 珈琲を飲み終わる頃には、栞を挟む場所も残り四分の一の辺りになっていた。 それと受け取った紙片を大切に鞄へしまい、会計を済ませる為にレジへと向かう。 純南の帰宅する気配をきちんと汲んでいたマスターは、扉に近い場所にあるそこで待っていて、ありがとうございました、と告げて支払うべき金額をレジへ打ち込んだ。 支払いを済ませ、財布をしまう。 そして振り返り階段を上ろうと足を踏み出した所で、後ろから呼び止められた。 「お好きな茶葉はありますか?」 唐突に投げ掛けられた質問。 けれど、考えるまでもなく答えは決まっている。一番最初に飲んだ、あの紅茶。 「…ダージリンが、好きです」 「そうですか」 頷いたマスターは、ちょっと待っていて下さい、と言ってカウンターへ戻り、手元で何かを詰めていた。 そしてすぐに戻ってくると、はい、と手渡される。 それは、透明な袋に入った茶葉だった。 「ほんの少しですが、持っていって下さい。あいつもうちのダージリンを絶賛していたんです」 あいつ、という言葉に込み上げる何か。 けれどそれを抑え込み、そっと両手で受け取った。 「ありがとう、ございます」 「いえいえ」 「大事に飲みます」 「…あいつを好いて下さっていたんですね」 躊躇いがちな、けれど確信を持った言葉。 問われた筈の純南の方が答えに躊躇った。 けれど。 「はい」 頷いた。 きっと、髪を黒く染めた彼と街ですれ違ったとしても、私は気付かないだろう。 それくらい、ちっぽけな想い。 それでもこれは、恋でした。 「それじゃあ、また来ます」 「お待ちしています」 静かに礼をして、今度こそ階段を上る。 カラン、と鳴ったドアのベル。 最後に振り向いた店内に、彼の残像を見た気がした。 * うん、美味しいよ。 クッキーを頬張りながらそう言ったのは、彼女のお兄様。 珍しく不在だったあの子の代わりに、一緒にお茶をしているのだ。 貰った茶葉の半分はクッキーに入れ、残りの半分は紅茶として淹れてしまった。 大切にとっておく気には、どうしてもなれなかったのだ。 良かったです、いっぱい作ったのでもっと食べて下さいね! 笑顔で告げて、ダージリンを飲む。 紙片に書かれた通りに淹れたそれは、それでも彼の淹れたものほど美味しくは無い。 きっと、あの紅茶の味さえ忘れてしまうのだろう。 後に残るのは、自分で淹れるよりも美味しい紅茶、という記号だ。 だから、早くこの茶葉を、恋心を血肉にしたくて、クッキーを焼いた。 なにかあったの? いえ、別に? でも、少し悲しそうだよ。 …お兄様は、何でもお見通しなんですね。 茶化すように言うと、頭を撫でられた。 その心地よさに身を委ねながら、小さく言う。 なんでもないですよ。 誰かから見れば、きっと。 けれど私には大事件だった。 小さく淡い、恋でした。 2010.3.13.(2011.8.3.修正)
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