ぴぴぴぴぴぴぴ
びびびびびびび

かちっ


「気温十八度、湿度三十九パーセント。良い朝だ」


家政夫サクの朝は、午前五時から始まる。





家政夫はサク






昨夜のうちに仕掛けておいたホームベーカリーから、良い香りが漂い始めていた。
それを横目に確認しつつ、彼は着替えを済ませてランニングへ出掛ける。

坂を下り、川辺を走ること二十分。程良く体が温まってきたところで、家へ戻ってシャワーを浴びるのが日課なのだ。


「精が出ますねぇ」
「ばうわう!」


早朝の散歩をしている年輩のご婦人方及びお供のわんこ達とは友好的な関係を築いている為、爽やかに挨拶は欠かせない。


「おはようございます。今日も良い天気ですね」


しゃがんで頭を撫でてやれば、大型犬の善丸は喜び抱きついてきた。尻餅をついて抱きとめると、大きな舌でべろんべろんと顔を舐められる。


「あらあら、善丸がこんなに懐くなんて本当に珍しいんですよ」


完全に下に・・・というよりも、保護すべき子犬と同じ対象に見られていて、顔を綺麗にするべく舐められているだけだと思います。
と、口を開くことのできない彼は当然言うことができず、黙って大人しくしていた。
きちんと顔は洗った筈なのに、毎回釈然としない儀式である。


「そうそう、家で木苺がとれたから、少しどうぞ」
「ありがとうございます」


老婦人からのお裾分けを有り難く受け取り、彼は屋敷へと戻った。旦那様とお嬢様が起床してくる前に、朝食の用意をしなければならない。


戻ってシャワーを浴び、二着用意した着替えの前で悩むこと数秒。
家政夫のユニフォームとして用意されているのは執事の燕尾服と俗に言うメイド服で、このどちらかを主達の気分によって選ばなければいけないのだ。

今朝の湿度、気温、昨日の夕飯、使用していた入浴剤、膨大な情報を処理して適正値を弾き出す。


「よし」


選んだのは、メイド服だった。
踝まで隠れるクラッシックな形のエプロンドレスを身に纏い、彼は台所へと立った。

厚切りのベーコンを火にかけながら、チーズ入りのオムレツを起用に作る。サラダはレタスにプチトマトと塩茹でしたアスパラガスで、大根おろしと醤油がベースのドレッシングを添えた。
紅茶を淹れる為のお湯が沸騰する寸前のところでダイニングルームに人の来る気配がした為、作業の手を止めてそちらへ向かう。


「おはようございます、旦那様。お嬢様」
「おはよ、サク」
「・・・ねむい」


椅子を引いてお嬢様を席に誘導すると、柔らかな羊のクッションを渡して一礼した。


「それでは、朝食をお持ちしますので少々お待ち下さいませ」


優雅な足取りでその場を去ると、台所では足早に盛りつけを始める。
スカートの裾を踏んでは転んでばかりいた頃に比べ、今ではどれだけ走ろうとも無駄なく動けた。果たしてそれが良いことなのかは置くとして、とにかくサクは綺麗に盛りつけた朝食をダイニングテーブルまで運び、自分の主人である彼らに振る舞うのだ。

*

朝食が終われば、次は外出の見送りである。


「サク、変?」


ファッションセンスのあまり無いお嬢様は特に支度が遅く、着替えにも時間がかかる。
洋服を一通り決めては彼を呼び出す彼女は、年頃の恥じらいもなく毎回薄着姿で、その度に彼は頭を抱えたくなるのだ。
顔を赤らめたり慌てふためくなど言語道断。旦那様に殺される。平静な態度で、お嬢様上着をお召し下さいと伝えながらガウンを肩へかけてやり、彼女が用意した服を見遣るのが日常であった。


「・・・お嬢様、赤いチェック地のスカートに緑色のニットでは、少々季節を先取りしすぎのように見受けられます。それは十二月にとっておいて、十月吉日、今日この日は白いシャツに黒いジャケットを羽織ってはいかがでしょうか?」
「じゃあそうする」


某国民的アイドルグループのようであるとは思ったが、彼女が選んだものを全否定しても主人は笑顔で鉄槌を下してくるのだ。
彼女の為に伝えているのに解せないとは思うものの、我が身がかわいいので、サクは自身が行うべきことだけを粛々と行った。


「いってらっしゃいませ、旦那様。お嬢様。本日の夕食は旬の秋刀魚を使う予定でございます」


見送りが終わっても、彼の仕事はまだまだ続く。
朝食の片付け、洗濯機を回す間に庭の掃き掃除。切れそうな電球の交換に本棚の埃を払い、息をつく間も無く洗濯物を干す。
パンをちぎって野菜の切れ端で作ったスープを飲み干すと、床を拭きあげていればすぐにお嬢様のお迎えの時間だ。


校門前には来て欲しくない、と少しだけ反抗期の反応を見せる彼女の為に、学校から一ブロック離れたアパートの前へ車停める。
携帯電話で到着の旨を伝えるメールを送ってから五分、鞄を抱えたお嬢様がやって来たので、素早く運転席から降りて扉を開けた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま。ねえサク、お願いがあるの」
「なんでしょう?」
「カラオケっていうのに行ってみたい」
「・・・・・・お一人で、でしょうか?」


念の為にそう聞きながら、扉をきちんと閉めて運転席へ戻る。
しかし、彼女の瞳は心なしかきらきらと光り輝き、ルームミラー越しにサクを見つめていた。


「・・・お嬢様」
「カラオケ、行きたい」
「・・・そうですか」
「一人で行ったらたぶん怒られると思うの」
「・・・そうですね」
「カラオケ」
「・・・・・・一時間だけですからね?」


煙草の臭いが染み着くから帰宅したらすぐにシャワーを浴びて着替えること、おやつは頼まないこと、店員や男性客に声を掛けられても無視すること等散々約束をして、サクは彼女の初めてのカラオケにお供したのだった。
ちなみに一時間の内、四分の三はマラカス片手に彼が歌っていた訳で。


「あるぅひっあるーひ!もりのっなっかっもりの、なっかっ!」

やけっぱちだった。
ちなみに当然、メイド服のままである。

*

帰宅してお嬢様を浴室へ押し込むと、洗濯物を取り込んで夕飯の支度だ。
魚屋さん及び八百屋さんへ宅配を依頼しておいた荷物を確認し、届いた品物の新鮮度を確認する。


「よし、美味しそうだ」


秋刀魚は刺身用に三枚へおろし、付け合わせにすりおろしたしょうがを。その他にも岩のりの味噌汁や里芋の煮物を用意して、和食でまとめた。


それが終われば、次は旦那様が戻ってくるまでの間、風呂を上がったお嬢様を机に座らせて宿題をこなすよう指示を飛ばしつつ、長い黒髪を乾かしてやる。
歌い疲れたと言ってすぐに眠りそうになるから、慌てて肩を揺すって次の問題を促すことなど日常茶飯事だ。
というか、歌っていたのは殆ど自分である。


「ただいまー」
「イバラ、おかえりなさい」


そして、午後八時。
仕事を終えて帰宅した旦那様の荷物を受け取り、ダイニングルームへと案内する。
夕食を用意し、彼らが食べ進めている間に風呂の温め直しと寝室の準備に不備が無いかを見て回った。


「サク、焼酎おかわりー!」
「はい、ただいま」


アルコールがよく進んでいる時は、旦那様の機嫌が良い日である。
お嬢様への接し方について特に詰められるようなこともしていない、とほっと息を吐いたサクは、今晩の安眠を確保できたことに肩の荷を降ろした。


焼酎瓶を持ってダイニングルームへ戻ると、食卓に並べた料理は殆どが綺麗に無くなっている。
お口に合ったようでなによりです、と控えめに微笑みながら旦那様のグラスへ酒をつぎ足すと、一歩下がって用事を言いつけられるのを待った。


「マリ、眠そうだね」
「眠い」
「もう寝る?」
「うん」


手招きをされて、すぐに傍へ寄る。


「マリを寝室に。それが終わったらもう下がって良いよ。お疲れさま」
「かしこまりました。お嬢様、参りましょう」


静かに扉を開けて促すと、こくりと頷いたお嬢様が心許ない足取りでやって来た。
抱き上げた方が早いけれど、それをすると明日が怖いからしない。彼女の部屋に到着するまで辛抱強く付き添いを行い、転んだらすぐに掬い上げられるよう気を配り続けた。


「おやすみ、サク」
「はい。おやすみなさいませ、お嬢様」


部屋の中へ戻っていく彼女の背中を見送り、ぱたり、静かに扉を閉める。
そのまま深く息を吐いたサクは、しずしずと自身にあてがわれている屋根裏部屋へと戻っていった。

*

テーブルの上のランプをつけて、グラス一杯の安いワインを煽りながらチーズ鱈を裂く。
無心でそれを行うこの時こそ、彼の安息の時間だ。

裂いては食べ、また次のものを裂く。そうして延々と続く日々に頭を痛めながらも、家で自分の帰りを待つ養い子の笑顔を思い、一日一日を乗り越えていくのだ。


頑張れサク、負けるなサク。
お嬢様とカラオケに行ったことが旦那様にばれて、鬼詰めされる明日が待っていようとも・・・!



***



「・・・っていう夢を見た」
「サクさん、お疲れですね。今度温泉でも行きましょっか」


朝、げっそりとした顔で朝食を頬張る吸血鬼の話を聞いて、同居人の少年は苦笑するのだった。







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